アインシュタインは以下のように語ったといいます。
「なぜかという問いはその答えの100倍重要である。」
普段、なぜかという問いはなんとなくスルーさせられて、受験勉強していることも多いのではないでしょうか?
これはこういうものだ・・とか、暗記するものですか・・・・などです。
でも、なぜかという問いは実は非常に重要なのです。
そして、なぜかとおもいつつもスルーさせられているあなたは、実はとってもよい素質を持っているのかもしれません。
この記事では、過去の天才たちの物理の思考方法について考えてみました。
物理学におけるイメージの重要性
天才科学者たちの頭の中はどうなっているのでしょうか?アインシュタインと南部陽一郎の二人の例をあげてみましょう。
アインシュタインについては、いまさら言うまでもなく、皆様よくご存知のことと思います。
南部陽一郎は、素粒子論に多大な貢献をしたことで知られており、ノーベル物理学賞を受賞しています。シカゴ大学で長らく研究をされていました。日本では、世間的にはあまり知られているとはいえませんが、物理の世界では稀有な天才として有名な方です。
科学者の思考方法
かのアインシュタインは、「私は主にイメージで考える。イメージが固まったら数式で考える」・・・と語ったといいます。
イメージを構築するには、どうすればよいでしょうか。
イメージ構築には言語が必要不可欠です。
人は、言語を使って思考するのです。したがって、イメージを構築する場合も、言語をツールとしているのです。
たとえば、有名なアインシュタインの思考実験、「目の前に手を伸ばし、鏡を持って自分の顔を眺めながら光速で走ると何が見えるか?」・・・当たり前ですが、これをイメージ化するのにまず言語をつかって思考し、状況設定をすることが必要なことがわかります。
これは、言語が人間にとって、ちょうど大工さんが家を作るときの金槌やのこぎりといった道具に相当すると考えられます。アインシュタインは、これらの道具でイメージを構築した後、イメージを自由に動かして思考するのです。そして、アイデアが固まった時点でそれを数学を使って検証したというわけです。
「自発的対象性の破れ」でノーベル物理学賞に輝いた南部陽一郎は日本人ですが、研究の場を求めてアメリカに帰化し、日系アメリカ人となりました。当然、アメリカ生活は長いので英語は堪能のはずです。
あるとき、記者にあなたは何語で考えるのか、日本語か?英語か?、と問われて「私は、だいたい数式で考えます」と答えたといいます。
南部陽一郎のなかでは、抽象的な思考を要求される素粒子論において、数式がもはや素粒子の世界を記述できる言語の域に達しているために、数式を使ってイメージを作ることができたのではないかと思われます。
日本語と科学
多くの人は物を考えるとき、母国語で考えるはずで、それが一番効率的な思考をもたらすでしょう。われわれ日本人は、当然ですが思考する言語は日本語です。これは、科学という西洋で発達してきたものを、完全に自分たちの文化に取り入れることができた、ということを示しています。
南部陽一郎とともに、ノーベル物理学賞に輝いた益川敏英は英語が苦手で(といっても不自由はしないでしょうが)、海外の学会へ出ることも敬遠気味だったそうです。彼は素粒子論の世界的な研究者です。彼が日本語で思考して、一流の理論を打ち立てることができたということは、われわれの母国語である日本語が完全に科学を扱う水準にあることを示しているのです。
よく日本語をして、「非論理的な言語である」、、、などとのたまう方(しかも日本人)が見えますが、本当にそうでしょうか。もし本当にそうであるなら論理で構築する科学が思考できるはずはありません。
また、海外では、非英語圏であっても、科学の授業は英語で行う国もあります。特に発展途上といわれる国ではこの傾向があります。これをもって、一部の識者は、日本では科学英語教育が遅れている、「日本でも英語を積極的に科学教育に取り入れるべきだ」、などど主張する人がいます。
しかし、これは実はまったく逆で、英語で科学の授業を行っている国はそうせざるを得ない、という面が大きいのです。
つまり、科学の概念をきちんと説明できるだけの体系を母国語で築けていない、ということなのです。
日本には、科学の用語を日本語に翻訳すべく努力してきた偉大な先輩たちがいるのです。
例えば、何気なく使っている、科学、物理、力学、加速度、遠心力、他にも生物系では細胞、遺伝子、化学系では塩酸、硫酸などなど、枚挙に暇がありませんが、これらは西洋科学が本格的に日本に入ってきた江戸後期・明治以降に翻訳された造語なのです。
これらの土台があればこそ、現在の科学立国としての日本があるといっても過言ではないのです。先達の努力に感謝すべきですね。
科学を日本語で考えるということ
次の想像をしてみてください。
極端な例ですが、
アマゾンの奥地では、今でも文明に未接触な部族が発見されることがあります。
彼らは、独自の言語・文化を持っています。
彼らに、私たちが高校で習う科学の基礎的なことを説明するときどうすればよいでしょうか。
まず、彼らの言語を解読して、彼らの言葉で説明しようとしても徒労に終わるはずです。
科学文明に無縁であった彼らの言葉では、現代科学の概念を説明することは難しいでしょう。
したがって、彼らが、科学を説明できる言語(例えば英語)を習得して、科学を学習・理解するのが普通なのです。
高校でも、大学においてさえも、全ての教科の授業を母国語である日本語で受けることができる、さらには研究ができる・・・・科学的思考を母国語である日本語行える、というのは、われわれ日本人にとって実は大変なメリットがあるのです。
まとめ
全ての教科の基礎は国語である。という話を聞いたことはありませんか?
それは、もちろん問題が日本語で書かれているため、その意味を理解するために国語が重要であるという意味なのです。しかし、それ以外にも、われわれは思考を日本語で行っているということから、思考ツールとしての日本語が重要であるという意味でもあるのです。
近年わが国では、英語教育にたいする改革が行われ、小学校から英語の授業を行うことになりました。
今日の国際社会における英語の重要性を否定するものではありませんが、日本語の重要性も忘れるべきではありません。
私たちは、日本語の書物を読み、日本語で思考する脳を鍛えるのがまず必要なのです。